県道脇で旧車再生ショー 通称・サニー名人の高木さん(茨城・北茨城市)
昭和38年製セドリックの傍らに立つ高木さん

 今年の3月から先月にかけてのこと。北茨城市華川町小豆畑の県道10号沿いで、小さなショーが展開していた。

 道路脇の空き地に置かれていたのは、ボディーのあちこちにさびが浮いた一見して年代物と分かる車。車のそばにはいつも、作業着姿の男性がいて、ボンネットの奥をのぞき込んだり、車の下に入り込んだり。

 通勤の車の人や、通りの散歩が日課の人には、車の変化が見て取れた。「タイヤがきれいになったね」などと、男性に声を掛ける散歩の人は少なくなかった。

 ある日、古い車の駐車方向が変わったことに気付いた通勤のドライバーは、車を停めた。

 「まさか、エンジンがかかったの?」。男性は、「当たり前だろうよ」と誇らしげだった。

 

 男性は、近所に住む高木修さん(74)。車は、昭和38年製造のセドリック。男性の知り合いという自動車整備工場から、「手を貸してほしい」と言われ、託された。

 高木さんには、「サニー名人」という通称がある。サニーは、セドリックと同様に日産自動車が製造した自動車。昭和40年代に製造された初期型は、今もファンが多く、それらを操るクラシックカーファンらが集まるイベントも開かれる。

 高木さんがサニー名人と呼ばれるのは、がらくたにも見えるサニーを再生させる名人だから。名付けたのは、高木さんを取材したカー雑誌の編集者。それから10年以上。「最近は、サニー達人という人もいる」と笑う。セドリックを引き受けたのは、「過去に手がけたどの車より古かったから」。

 

 同市の生まれ育ちで、高校時代は、バイクで地元の山野を走った。当時から、エンジンの中身までが興味の対象だった。

 日産自動車の横浜工場に勤めるようになって、本格的な技術を身につけた。「月給が3万円だったけど、サニーがほしくてねえ」。夢をかなえたときのうれしさは今も忘れない。

 

 「車が本当に好きな人は、車と自分の間に、境界線がないもの」と高木さん。だから、車と向き合うことは、人と向き合うことと同じだという。

 東日本大震災の後、津波を浴びてしまった古い車の再生に携わった。「あの大変なときに、自分にもできることがあって、救われた思いがした」

 

 愛車は、昭和44年製造のサニー。高木さんにとって5代目のサニーだ。状態は最高で、「お恥ずかしながら、この間、高速道路で、スピード違反でとめられてしまった」

 よく考えるのが、愛車と自分とどっちが長生きできるかということ。結論はいつも同じだ。

 「俺が元気な間は、あいつも大丈夫だから、やっぱり一心同体ということになるんだよ」

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