水戸市に、48歳の総合格闘技新チャンピオンが誕生した。同市千波町に総合格闘技ジム「R‐BLOOD(アール・ブラッド)」を開く桜井隆多(りゅうた)さんだ。チャンピオンベルトを獲得したのは昨年12月だが、今も県内外の友人、協力者、スポンサーなどのもとに、ベルト携えて報告に向かう日々を過ごす。桜井さんは、「この結果を、自分以上に喜んでくれる人ばかり。続けてきて良かったと心から思う」と喜びをかみしめる。
総合格闘技とは、空手やボクシングなどで使われる打撃技と、柔道やレスリングなどの投げ技、寝技の多くが許される競技で、世界中で人気がある。桜井さんがチャンピオンとなったのは、東京が拠点の「GRAND(グランド)」というイベントだ。
桜井さんは、同市生まれ。アントニオ猪木さんらが巻き起こしたプロレスブームの最中に少年時代を過ごし、多くの友人らと同様に強くなることを夢みた。中学からはレスリング部に所属。社会に出てからも熱がさめることはなく、20代では、アメリカで、アントニオ猪木さんの師匠でもあるプロレスラー、カール・ゴッチさんの指導も受けた。1998年にプロの総合格闘技選手としてデビューした。
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チャンピオンになったのは2回目。2004年には、「DEEP(ディープ)」というイベントで頂点に立った。
2006年に、同イベントのチャンピオンベルトを失ったときは、すでに34歳。それを期に引退してもおかしくない年齢だった。続けた理由の1つは、「自分にはこれしかないから」という思い。また、知らず知らずに増えていた大勢の支援者の姿も、支えになった。
最初にチャンピオンになったのと前後して自分のジムを構えた。練習生らとは、家族のような関係になった。チャンピオンになった話が広まると、かつて一緒に強くなることを夢見た旧友らも声を掛けてきた。
アメリカ修業時代に偶然出会った水戸市出身の先輩と再会したのもそのころ。先輩は、交通事故をきっかけに車いすで暮らしながら、どんなことにも果敢に挑戦した。「いつも力をくれる人」と桜井さん。結婚したことも、気持ちを強くした。
しかし、現実は厳しく、敗戦が続くこともあった。けがにも苦しめられ、選手生命を懸けた手術もした。
それでも周りは優しかった。たとえ負けても、桜井さんの努力と挑戦を理解した。「頑張ってくれているだけで自分たちの力になる」と言ってくれた。そんな優しさはいつも、桜井さんの心を熱くした。「何としてでももう一度チャンピオンになって、みんなに喜んでもらいたい」。そんな願いは、強まるばかりだった。
昨年12月のタイトルマッチが決まったときは、最後のチャンスだと思った。相手は、22歳年下の黒人選手。太い手足を振り回す打撃技が武器で、試合前には、桜井さんの年齢を引き合いに出して、ばかにするようなコメントを発表した。試合前の評は、「桜井不利」だった。
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5分3ラウンドの2ラウンド目。
桜井さんは、1ラウンド終盤にくらった強烈なパンチのダメージから、一時的に右目の視力を失っていた。チャンスだと判断した黒人選手は、パンチを畳み掛けた。桜井さんが倒れると、馬乗りになってパンチを続けた。桜井さんの応援席からは悲鳴のような声が上がり、「やっぱりだめか」というムードが応援席を覆った。
だが、桜井さんは冷静だった。パンチを受けるたびにダメージの程度を分析し、反撃の手を考えた。黒人選手の右腕が狙えることも頭にあったという。
殴られる一方だった桜井さんが、黒人選手の右腕をつかんだとき、会場はかたずを飲んだ。桜井さんがあらん限りの力で右腕を伸ばし、腕ひしぎ十字固めを決めたとき、悲鳴ばかりだった桜井さんの応援席の声が、大歓声に変わった。
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2ラウンド2分56秒、相手ギブアップによるTKO勝利。
試合終了を告げるゴングを聞いて最初に浮かんだ気持ちは、安堵(あんど)だった。「これで格闘技を続けられる」。その後、リングに駆け上がってきた関係者、練習仲間、友人、支援者らにもみくちゃにされる中では、みんなが一緒に闘ってくれていたことを改めて感じ、こみ上げる感情を抑えた。